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東京高等裁判所 昭和52年(う)963号 判決

被告人 梅澤恂二

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人佐藤淳作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

論旨は事実誤認の主張である。

本件公訴事実(訴因変更後)の要旨は、

「被告人は、肩書住所地において整形外科病院を開業する医師で、患者の診察・治療等の業務に従事しているものであるところ、昭和四四年一二月五日午後二時ころ、同病院において、同日午後一時ころ左腕を受傷した苦田哲也を診察した際、左上腕骨顆上骨折と診断し、即時入院させて、同人の左腕に弾力帯を巻き、垂直牽引療法を開始したが、上腕骨顆上骨折の場合、動脈性血行障碍により、フオルクマン阻血性拘縮と呼ばれる前腕筋組織の壊死・変形を起こす可能性があるので、骨折あるいは治療施行後約一〇時間は同拘縮の前駆症状ないし初期症状の有無を十分に監視し、その発現を認めたときは、直ちに牽引療法を中止して包帯を除去し、右措置によっても血行の改善が得られないときは、同拘縮の原因となる障害を除去し血行を促進する手術を施すなどして、血行の再現を図り、同拘縮の発生ないし悪化を防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、右症状の有無を監視せず、同日午後八時ころから、苦田哲也に同拘縮の前駆症状ないし初期症状が現われていたのに、同月九日まで弾力帯を巻いたまま垂直牽引療法を続行したのみならず、同日午後二時ころ診察した際、同拘縮の症状がすでに発現していたのにこれに気付かず、徒手整復・ギプス副子による固定を施したのみで前記のごとき適切な治療を怠った過失により、昭和四五年一月一二日ころまでに同拘縮を固定させ、よって、同人に、左手指・左前腕等の成長および機能障碍の傷害を負わせた」

というのであるところ、原判決は、

「…………骨折あるいは治療施行後約二四時間は腫脹、疼痛、チアノーゼ、知覚異常などのフオルクマン阻血性拘縮の前駆症状ないし初期症状の有無を十分に監視しなければならず、その発現を認めたときは、…………同拘縮の発症を防止すべき業務上の注意義務があるのに、被告人において、右症状の有無を十分に監視しなかった過失により、翌六日朝ころまでには同拘縮の前駆症状ないし初期症状が発現していたのにこれに気付かず、同月九日まで垂直牽引療法を続行し、同日午後二時ころ診察して徒手整復、ギプス副子による固定を施したのみで前記のごとき適切な治療を怠つたため、昭和四五年一月五日ころまでに同拘縮を固定させ、よつて、同人に対し、左手指、左前腕等の成長および機能に障害を生ずる傷害を負わせた」(省略部分は公訴事実と同旨)

と認定して、被告人を有罪とし罰金五万円に処した。

これに対し、所論は、要するに、被告人は苦田哲也につきフオルクマン阻血性拘縮の前駆症状ないし初期症状の有無を十分に監視していた、当時同人に発生した症状のみによつては同拘縮の発症を予見することは不可能であつたので、被告人には原判示のごとき治療をなすべき注意義務はなかつた、被告人には医師としてなすべき注意義務の懈怠はなく、被告人は無罪である、というのである。

そこで記録および原審において取り調べた証拠を調査し、当審における事実取調の結果を合わせて検討する。

一、まず、関係証拠によれば、以下の事実を認めることができる。

(一)苦田哲也(昭和四二年一月一日生)は、昭和四四年一二月五日午後一時ころ、自宅前路上で足踏式自転車の荷台に乗せられていたところ、母親の苦田ヨリ子が右自転車をスタンドで立てたままその場を離れた間に、自転車ごと路上に転倒し、左上腕骨顆上骨折の傷害を負い、同日午後二時ころ、救急車により、被告人が院長をしている救急指定病院整形外科梅沢病院に搬送された。

(二)被告人は、当時外来患者を診察中であったが、直ちに哲也の診療を行ない、レントゲン撮影の結果、骨折部の骨の転位が著しく、入院治療が必要であると判断し、当時梅沢病院のベツドが満床であつたため、症状が軽快していて退院可能な状態にあった金子翠を即日退院させ、そのあとに哲也を入院させて、骨折部の骨の転位を整復するため、同人の左腕に弾力包帯を巻きスピードトラックバンドを使用して垂直牽引療法を開始した。

被告人は、同月九日まで右療法を継続し、同日午後二時ころ、非常勤の大久保医師とともにレントゲン透視下において徒手整復を実施したのちギプス副子による固定を行ない、同月一六日ギプス固定のまま哲也を退院させた。

(三)退院後哲也は、同月一八日、二三日、二九日、翌四五年一月五日、一〇日、一二日と梅沢病院に通院したが、一月五日被告人が哲也を診察した際、同人の左腕にフオルクマン阻血性拘縮(以下フオルクマン拘縮ないし単に拘縮と略称する。)が発生していることを認め、マッサージ、温熱療法を施し、その後同人において広島大学医学部教授(整形外科専門)津下健哉の診察、治療等を受けたが、フオルクマン拘縮による回復不可能な左手指、左前腕等の成長および機能の障害という後遺症を残すに至つた。

(四)フオルクマン拘縮は、四肢に対する急性ないし亜急性動脈性血行遮断又は障碍の結果、筋組織が壊死に陥り、それが線維性組織に置換され、線維性組織が短縮して起るものと一般に考えられており、四肢の骨折、ことに上腕骨顆上骨折の場合、直接骨折骨片によるかもしくは外部からの緊縛包帯等による動脈血行障碍等が起こり、これが拘縮につながる可能性があり、幼児の場合は成人に比較し、その確率が高い。

フオルクマン拘縮の前駆症状としては、(1)末梢部の動脈拍動の消失又は減弱、(2)末梢部の蒼白化、(3)末梢部の痛み、特に初期にはだるく、重いような鈍痛、次いで鋭い自発性の疼痛の発現、(4)末梢部の知覚、運動神経麻痺の症状が現われ、またその初期症状としては、末端部が腱側より冷たく青味を帯び(チアノーゼ)かつ腫脹するとともに、強い自発性疼痛を訴え、ことに指を他動的に伸展し、筋を伸張しようと試みるとその痛みが増強することが最も著名なものであると一般に考えられているが、右のごとき前駆症状ないし初期症状は、受傷ないし治療施行後比較的早期に発現するのが通常であるとされている。

以上認定の事実関係のもとにおいては、被告人において、苦田哲也を診療するにあたり、フオルクマン拘縮の発症のあり得ることを念頭におき、ことに幼児の場合は、問診に対する的確な応答を得ることが困難であることをも考慮して、前記のごとき前駆症状ないし初期症状の有無を的確に監視すべき業務上の注意義務があることはいうまでもない。

二、そこで、被告人に右の監視義務の懈怠があつたか否かについて検討する。

大久保行彦、奥泉(旧姓満井)あい子の各捜査官調書および原審証言、塩野正喜、小野関順子の各原審証言、被告人の各捜査官調書および原審供述等によれば、当時梅沢病院に常勤する医師は院長の被告人一人であったが、このほかに非常勤医師として大久保行彦(当時東京医科歯科大学非常勤講師、大宮赤十字病院整形外科副部長)、塩野正喜、須川某(いずれも当時東京医科歯科大学整形外科教室所属の大学院生)の三名がおり、夜間ないし休診日の当直勤務は、被告人および右三名の医師が交替であたつており、ことに被告人は、住居が病院と廊下続きになつているため、外出時等を除き常時入院患者の診療にあたり得る状態にあつたこと、同病院においては、医師が一日に一回入院患者全員を回診するほか、とくに入院後間のないいわゆる新鮮患者や症状に問題のある患者等の場合には適宜これを診察することとしており、また、看護婦をして一日に三回入院患者の検温を実施させるとともに、夜間等には当直看護婦をおき、看護婦詰所と各病室とをインターホーンで結んで看護婦が患者の訴えに即応できる体制をとつていたこと、さらに同病院においては骨折等外傷性の入院患者が多数を占めていたこともあつて、日頃被告人から看護婦に対し、骨折患者につき爪の色の変化等症状の推移に注意し異状が認められた場合には直ちに被告人に報告するよう指示がなされており、また、本件苦田哲也の入院治療に際しては、被告人および看護婦から付添の母親苦田ヨリ子らに対し、哲也の左手の爪の色の変化に注意するようにとの指示がなされていたこと、の各事実が認められ、右認定の事実によれば、当時被告人がとつていた、哲也をはじめとする入院患者の症状推移等に対する監視体制には格別の手落はなかつたものというべきである。

もちろん、幼児の上腕骨顆上骨折の場合、後遺症として、フオルクマン拘縮という悲惨な結果が生ずる可能性があり、しかもその前駆症状ないし初期症状の有無の判定が、後記のとおり必ずしも容易でないことにかんがみ、専門の医師、ことに継続的に哲也の治療にあたつていた被告人において、みずから哲也の症状ならびにその推移を正確に観察・把握していることが最も肝要であることはいうまでもなく、仮に被告人が、最も重要な時期である治療後初期の段階において、みずからまたは他の医師ないし看護婦らを介してでも右の観察を全くしていなかつたとすれば、右監視体制の如何を問わず、被告人に前記監視義務の懈怠があつたといわざるを得ない。

そこで、この点についてさらに検討するに、前記苦田ヨリ子は原審において、一二月五日(金曜日)に被告人が哲也に対し垂直牽引療法を施してから、同月八日(月曜日)朝被告人が哲也を診察するまでの間、ヨリ子において看護婦を介するなどして度々被告人の診察を申出たのにかかわらず、被告人をはじめとする医師の診察が全くなかつたと証言している。これに対し、被告人の捜査段階および原審における供述は、一二月五日には、午後一〇時前後ころを最後として、少くとも五・六回哲也を診察して血行障害の有無を検査し、翌六日朝外来患者の診察開始前に再び同人を診察し、その後も適宜同人を診察して、循環障碍の有無等病状の推移に対する監視を怠らなかつたというのであつて、ヨリ子の前記の証言と際立つた対立を示している。

ヨリ子の右証言は、詳細かつ具体的であるうえ、同人が付添中に病院内での出来事等を記載した手帳(当裁判所昭和五二年押第三六六号の四)および哲也の退院後に同人に対する治療の経過やその病状の推移等を記載したノート(同号の五)の各記載を基礎とするものであつて、被告人の右各供述がカルテの記載等客観的証拠による裏付けもなく、しかも事件後相当の年月を経過した後になされたものであることと対比すれば、一見高度の信用性を有するかのごとくである。

しかし、さらに考察するに、ヨリ子において、前記のとおり自己の不手際から息子の哲也を骨折させたことに対する責任感もあり、愛児の苦痛をまのあたり見て不安感、焦燥感を抱くのは当然であり、そのことから、医師や看護婦の措置に対する不満や批判も増大していたことは、むしろ自然の成行ともいうことができる。しかも証拠によれば、ヨリ子が前記手帳に一二月五日から同月八日までの出来事等をまとめて記載した八日夜には、哲也に、骨折による症状に加え風邪によるとみられる発熱があつたことが認められるので、ヨリ子の焦燥感や不安感もさらに高まつていたことは右手帳の記載に照らしても推察に難くなく、また、その際同人および哲也の父親の定男がかかりつけの小児科医の往診を要請したのに対し、被告人が梅沢病院の近くの小児科医の往診を求める手段もあることを理由にこれを拒絶したといういきさつもあつて、被告人の措置に対する不満も高まつていたことがうかがえるのであつて、以上の点に加え、ヨリ子および定男において、被告人の哲也に対する本件治療に過失があつたとして、被告人を業務上過失傷害罪で告訴すると同時に被告人を相手どつて損害賠償請求訴訟を提起するに至つていることをも合わせ考慮すると、右手帳およびノートの記載ならびにヨリ子の原審証言の信用性については、慎重な検討が必要であると思われる。

ところで、右手帳の記載を検討するに、一二月五日の記事の末尾に、「それにしても一晩中よく泣いた、先生が一度でもいいから見に来てくれればよいのにと思う。」との記載があるが、右の記載は、単に夜中医師の診察がなかつたことに対する不満の表明にすぎないとも解することができ、右の記載は、必ずしも一二月五日に被告人が哲也を一度も診察しなかつたことを意味するとはいえない。また、一二月六日の記事の中に、「先生の診察がないので不安だ、看護婦さんを通じて頼んだがだめだ、忙しいのかな。」との記載があるが、右は、被告人もしくはその他の当直医がヨリ子の診察依頼に応じなかつたことを記載したにすぎないとも解されるのであつて、この記載も、必ずしも六日は終日医師の診察が一度もなかつた趣旨と断定することはできない。また、一二月七日の記事には、医師の診察がなかつた旨の記載はない。

次に右ノートの記載について検討するに、一二月八日の記事に、「院長回診で先生がやつて来る、入院してから先生の診察は二度目。」との記載があり、右の記載からは、一二月五日から八日までの間に医師の診察がなかつた趣旨をかなり明確に読みとることができる。しかし、右ノートの記載がなされたのは前記のとおり哲也が退院してから後のことであり、その時期は証拠上必ずしも明確ではないものの、右ノートには、哲也のフオルクマン拘縮に対する事後処置としての手術に関する昭和四五年七月二〇日の出来事までの記載があり、その記載の内容や体裁に徴し全部の記載が一度になされた蓋然性も高いと認められるので、退院後相当時日を経過してから書かれた公算が大である。いずれにせよ、右ノートの記載がなされた際には、すでに哲也にフオルクマン拘縮の後遺症が発生していたことは疑いがなく、右ノートの昭和四五年六月八日の記事に、「哲也が受診した広島大学整形外科の看護婦から『どこでこんなことを起こしたんだね、ここでは絶対にこんなことは起こさないのに、フオルクマンを起こすのは整形外科医の失格だと言われているよ』と言われた」旨の記載があることに照らしても、ノートの記事が、被告人の治療に対する不信の念をもつて書れたことは推察に難くない。これらの点にかんがみると右ノートの記載中少くとも被告人の診療状況に関する部分は一概に信用し難いものというべきである。

また、ヨリ子の原審証言については、それがなされた時期やその際における被告人との対立状態等にかんがみても、右ノートの記載よりもさらに信用性が低いものといわなければならない。

ひるがえつて考察するに、前記大久保、塩野および小野関順子、奥泉あい子(いずれも看護婦)らは、原審において口をそろえ、「被告人は患者の診療に関し神経質と思えるほどに熱心であつた」との趣旨の証言をしているところ、被告人が前記のとおり入院中の患者を退院させてまで、即時入院を要する、治療の困難な哲也を入院させてその治療にあたつていることによつても、ある程度右証言が裏付けられているともいい得る。

当時哲也と同室に入院していた小林まさの原審証言によれば、一二月五日は被告人は午後一二時ごろまで十回以上にもわたつて病室に来て哲也を親切に診ていた、土曜日も被告人が居ないときは他の医師がきちんと回診していた、というのであり、また、塩野正喜は原審において、「当時、自分もしくは須川某が梅沢病院における土曜日、日曜日の当直医としての勤務を担当していたが、ごく例外的に土曜日の午後九時を過ぎて同病院に到着する場合を除き、土曜日の回診を欠かしたことはなく、日曜日には回診を欠かしたことはない、回診を省略した場合にも、問題のある患者は必ず診察しており、幼児の上腕骨顆上骨折の患者は観察すべき患者の部類に入る、哲也を診察した記憶はないが、同人が泣いたりして騒いでいたら確実に診察したと思う」との証言をしており、右各証言の信用性を疑うべき格別の事情は認められない。

以上によつても窺えるように、被告人は一応、診療に熱心であるとの評価を得ており、しかも自己の経営する病院の院長として、責任をもつてこれを運営していたのであり、このような被告人において症状の推移に対する監視がとくに必要とされる哲也を、なかでも重要な治療後初期の段階において、母親の訴えを無視したまま全く診察しなかつたなどということは、常識上まず考えられないところである。もしそのような不作為や怠慢があつたとすれば、その理由原因となつた被告人の生活行動ないし特段の事情(例えば不急不用の雑談、外出、飲酒、休息など)があつて然るべきであるのに、そのような事情は原・当審の審理を通じても何らこれを窺い知ることができないし、原判決もとくにこれを認定していないのである。また、単にヨリ子の要求があつたのに病室に行かなかつたことから直ちに被告人に怠慢があつたとすることもできない。

このように見てくると、苦田ヨリ子の原審証言および前記ノートの記載中、一二月五日に垂直牽引療法を開始してから同月八日朝に被告人が診察するまでの間医師の診察が全くなかつたとの部分は、被告人の原審供述やその他の証拠と対比して信用し難いものといわざるを得ない。そして、他に、哲也を適宜診察して同人の病状の推移に対する監視を怠らなかつたとする被告人の供述を覆えすべき証拠はない。

以上に検討したところを総合すると、本件当時被告人において、看護婦や他の非常勤医師による入院患者の診療・観察の体制を整え、これらの者を通じて哲也をはじめとする患者の病状把握に努めると同時に、みずからも哲也を適宜診察して、その病状の推移に対する監視をしていたと認めるのが相当である。

右の事実に、後記のとおり、哲也に発現していたとみられるフオルクマン拘縮の前駆症状ないし初期症状も、それほど顕著なものではなかつたことをもあわせ考えると、たとえ証拠上、診察の回数等監視の程度方法につき若干不明の点はあるとしても、結局、被告人に哲也に対する症状の監視義務の懈怠があつたとは認められず、この点につき被告人の過失を認めることはできない。

三、次に、被告人が、哲也のフオルクマン拘縮の発症を防止するための特別の治療措置を講じなかつた点に過失があつたか否かを検討する。

関係証拠を総合すれば、哲也は受傷当日の一二月五日一杯、疼痛を訴えて相当ひどく泣いていたことおよび翌朝には左腕が大きく脹れていたこと、五日夜から六日にかけて哲也の左手は、爪の色に変化はなかつたものの手甲に紫色の斑点が出ていたことが認められる。右の腫脹と疼痛の程度態様については、前記手帳およびノートの記載、苦田ヨリ子、同定男の原審証言によれば、相当強度のものであつたことは窺われるが、当時における右両名の心理状態等につき前述したところによれば、これらの表現にはかなりの誇張があるとも思われ必ずしもそのまま措信することはできない。むしろ小久保裕久(原審)、佐藤孝三(当審)の各証言、被告人の原審公判供述によれば、後述のように、骨折の場合はある程度の腫脹と疼痛は通常伴うものであり、また哲也に対する診療録(当裁判所昭和五三年押第三六六号の一)、津下教授の原審証言等によれば、右の紫色の斑点はチアノーゼであるとすることはできず、また治療開始初期の段階においては哲也に運動神経麻痺の症状があつたとは認められない。なお佐藤の当審証言によれば、本件の場合血流障害が拘縮の原因となる程度に高度であつたかどうかは、専門的知識経験をもつてしても結局判断することができない。

以上によれば、一二月五日六日の段階において、哲也の症状に拘縮の前駆症状ないし初期症状が明確に現われていたと断定することはできない。ちなみに、津山直一作成の鑑定書(六項)には、入院当日の午後八時ごろには拘縮の初期症状が出現した可能性はある、との趣旨の記載がある。けれども、右の所見はそこにも明記されているように、告訴人(ヨリ子)の供述を前提としているのであるが、ヨリ子の供述が必ずしも措信し難いものであることは前記のとおりである。

次に一二月七日から九日までの間においては、関係証拠によれば哲也の前記紫色の斑点は七日には消失したのをはじめ、前記症状は逐次消退したが、他に拘縮の発生を明らかに予見すべき格別の症状が発現したことは認められない。そして九日午後には被告人と大久保医師がレントゲン透視下において徒手整復を実施したのちギプス副子による固定を行つたことは前記のとおりである。

大久保行彦の各捜査官調書および原審証言によると、右の処置に先立ち大久保医師が哲也を診察した際哲也の左手指を動かしてみたところ抵抗が感じられ、これに合せて腫脹があつたことから、フオルクマン拘縮の発生を懸念し、被告人にもその旨報告したことが認められる。しかし、後記のように豊富な治療経験を有する同医師においてもその際現に拘縮が発生しているとは認めず、かつこれに対する格別の措置を講じないままギプス副子による固定を行うことに同意し被告人とともにこれを行つていること、佐藤鑑定書ならびに同人の当審証言によれば、本件では血流障害が比較的緩徐におこつてきて、拘縮発生までにかなりの時間を要したかもしれず、一二月九日ごろに拘縮の発生が明白に分る程度の症状になつていたかどうかは結局よくわからないこと、等に徴すれば、右の時点における被告人らの判断や措置に不手際ないし過誤があつたと断定することはできない。

もつとも、津山直一作成の鑑定書には「一二月九日の大久保医師の診断の当時には、(フオルクマン拘縮は)かなりはつきりした形をとつてきたものと考えられる、との記載がある。しかし右鑑定は、同鑑定書の記載等によつても明らかなように、捜査段階において、当時の捜査資料それも主として告訴人たるヨリ子らの供述を基にしたものであること、さきに引用した佐藤鑑定人の反対趣旨の所見等にてらして、直ちに採用することができない。その他右の時点で哲也に拘縮が発生していたことを認めるべき証拠はない。

さらに関係証拠、ことに鑑定人佐藤孝三作成の鑑定書および同人の当審証言によれば、以下の事実が認められる。

(一)骨折の場合には、疼痛および腫脹は程度の差はあれ常に随伴する症状であり、たとえそれが強度のものであつたとしても、多くの場合はフオルクマン拘縮にならずに治ゆしており、右症状が結果からみてフオルクマン拘縮の前駆症状ないし初期症状であつたと判断される場合であつても、そのことから直ちに、その症状が発現した時点において、拘縮の発生を確実に予見することは非常に困難であること、(二)垂直牽引療法自体は、血流の障碍となる骨折による骨の転位を矯正する療法であつて、転位の著しい上腕骨顆上骨折に対する正当な療法として一般に是認されているものであり、他方右療法の手段として弾力包帯を巻くことにより血流が阻害され得るとしても、一時的にせよこれを解くことは骨折に対する治療を放棄することにほかならないこと、(三)フオルクマン拘縮の原因たる血行遮断ないし障碍を除去するための観血療法は、ことに幼児の場合にあつては非常に難しいうえ、危険を伴うものであるから、フオルクマン拘縮の発生が相当程度懸念される症状があつても、ただちに観血的療法をとることなく、症状の推移を見守るにとどめるのが、大多数の医師における現実の治療方法であること、(四)現に、上腕骨顆上骨折に対する豊富な治療経験を有する大久保医師においても、過去フオルクマン拘縮の発生を懸念される症状に多数出合いながら、これを防止するための観血的療法を施した経験はなく、しかもそれにもかかわらず、同人が治療を担当した患者にフオルクマン拘縮を起こした例はないこと、(五)被告人も、哲也の症状から、フオルクマン拘縮の発生を懸念しながらも、その症状の程度を考えこれを防止するための特別の措置をとることなく前記治療を継続したこと(被告人は、原審において、哲也には拘縮の発生を懸念されるような症状は全くなかつた旨供述しているが、右供述は、被告人の司法警察員に対する昭和四七年三月一四日付供述調書に対比してもたやすく信用できない。)。

以上(一)ないし(五)に認定した事実に、上来検討した結果を総合して判断すると、およそ、被告人に限らず本件の如き症状をもつ幼児患者の治療を担当した専門医一般に対して、一二月五日から九日の間において、その症状に明らかに拘縮の前駆症状ないし初期症状があると判定して直ちに拘縮の発生を防止すべき特別の治療措置を施すべき業務上の注意義務があると解するについては多大の疑がある。他面、右の如き特別の措置を施すことなく垂直牽引療法を実施したことが医師としての治療上の裁量の範囲を逸脱した違法不当なものであると断定することもできない。したがつて以上の点につき被告人に業務上の過失責任を問うのは相当でない。

その他関係証拠を仔細に検討しても、前記一二月九日の時点から哲也が退院するまでの間、退院後翌年一月五日に被告人が哲也にフオルクマン拘縮が発生しているのを認めた時点までの間ならびにその後同月一二日の通院を最後として同人が転院するまでの間に、被告人が診療上の過誤を犯したことを認めるに足りる証拠はない。

四、ひるがえつて、本件事案に即して勘案するに、フオルクマン拘縮発生のメカニズムについては医学上未だ解明し尽されているとはいえず、その前駆症状ないし初期症状として、一般に前記のごとき諸症状が挙げられているものの、常に必ずしもこれらの症状が、明確な診断が可能な程度に定型的に発現するわけではなく、治療上格別の落度がなくても、結果としてフオルクマン拘縮が発生することもあり得ることが認められる。佐藤孝三の当審証言によれば、医学の進歩、ことに整形外科の専門分化の成果として、骨折に伴うフオルクマン拘縮の発生率が激減していることは認められるが、なお現在の医学水準に照らせば、結果的にフオルクマン拘縮が発生したことから、ただちに担当医師に診療上の過誤があつたとすることは、もとより相当でない。

本件においては、すでに説示したように、被告人が哲也の入院および通院時に担当医師として当然なすべき、症状とその推移に対する監視を怠つたとはいえず、哲也の拘縮発生を予報すべき明白な症状があつたことも確定し難い。結果的に拘縮の発生したことから逆推すれば、一応前駆症状ともいうべき状況があつたことは否定し難いとしても、被告人としては、平均的整形外科医としてとるべき医療手段を怠つたとはいえないのであつて、それ以上に、幼児患者に予想される多くの危険と困難を排しても、拘縮予防のための特別の処置をとるべき法的義務があつたと解することも相当でない。哲也本人はもとよりその両親らにとつてまことに不幸な結果を生じたことは同情を禁じえないけれども、本件においては、仮に被告人の判断や処置に多少の遺憾な点があつたとしても、なお医師としての裁量と技術の範囲内のことであつて、専門医家の批判に委ねらるべき事柄であろう、当裁判所としては、すでに検討した証拠関係のもとにおいては、本件の訴因とされた被告人の業務上過失の事実はいずれも認定しえないものと考える。

してみると、被告人に対し、判示のごとき過失を認定した原判決は、事実誤認を犯したものというのほかなく、この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるので、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して、被告事件につきさらに次のとおり判決する。

本件公訴事実の要旨は、既に引用したとおりであるところ、被告人に公訴事実記載のごとき過失があつたことを認めるに足りる証拠がないことは前説示のとおりであつて、本件被告事件は犯罪の証明がないことに帰するから、刑訴法四〇四条、三三六条後段により、被告人に対し無罪の言渡をすることとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 岡村治信 小林隆夫 南三郎)

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